- 宮本 洋平
- 角田 英明
- 佐藤 真吾
- 河津 典全
- 日高 裕子
- 大島 あかり
- 田中 慎吾
- 堀本 俊治
- 居石 郁佳
- 阿具根 明信
- 小笠原 ゆきこ
- 和久井 博
- 関根 雄基
- 舛田 賢弘
- 山口 隼輔
- 阿部 由菜
- 貴田 沙知
- 倉林 駿吉
- 中村 朱里
- 松田 恵示
- 小波津 亮
- 山本 蒼太
- 原田 享汰
- 小澤 ゆかり
- 佐野 友美
- 加賀谷 信貴
スタッフ紹介
佐藤 真吾
幼少時代
私は、東京都大田区雪谷に長男として生まれました。「真実の人」になって欲しいという願いから真吾と名付けられました。当時の番組で、山城新伍さんの「新伍十番勝負」が父が好きだった事も名前の由来としてあるようです。
父が経営者であった為、あまり家にはいませんでしたが、時間、約束事、食事の時のマナーには厳しい父でた。そんな父ですが、たまの休みには必ずキャッチボールをしてくれる、厳しくも優しい父でした。
野球を見るのもやるのも好きで、壁跡がつくくらい夕暮れまでずっと壁当てしてました。祖父が立教大学の野球部のキャプテンだった事もあり、西武黄金期を創った根本陸夫さんと親交があり、秋山元監督、清原元選手などのサインを頂き、より野球にのめり込んでいきました。
4歳から移り住んだ川崎市宮前区の少年野球団、宮崎台モンスターズに小学校2年生から入団しました。打順は2番、ポジションは遊撃手。背番号は4番でした。同じ地域の野球チームは強豪ばかりで、負ける事が多かったチームですが、皆んな仲が良いチームでした。
小学校では後に卒業文集で、ユニークな人といわれる様に、クラスメイトにあだ名を付けたり、皆んなを笑かす事が得意でした。
土日の野球チーム以外にも、学校がら帰ってくると野球をしたり、公園で基地を作ったり、自転車で行ける所まで行って、駄菓子屋で買い込んだお菓子やカップ麺を皆んなで回し食いをしてました。
小学校の卒業式の日の後に、今もある中華屋で、超大辛の担々麺を食べに行きました。私の周りには面白いの友人達が沢山いました。
クラスメイトと面白いことを言いあったり、家に帰ってはランドセルを放り投げ、暗くなるまで公園で好きな野球をしたり、基地を作ったりの日々を過ごしていました。
学生時代
川崎宮前区の中学校に入学した私は、小学校時代の熱をそのままに野球部に入部します。 第二次ベビーブーム(団塊ジュニア)世代の為、1クラス42名。1学年14クラス。計588名。
全校生徒数1764名のマンモス校にだった事もあり、勉強、クラスでの存在感など何もかもが競争の世界でした。もちろん野球部のポジション争いも凄く、世間はまだ野球が何よりポピュラーなスポーツだったこともあり、野球部総人数、約100名程在籍。1年生は40名程いました。
同じショートのポジションには、2、3年生も含め9人がいました。同級生の金子がいて、後にキャプテン、投手もできた4番打者が君臨していました。1年生は掃除、球拾い、声出し。髪型は三分刈り。2年生は少数レギュラーと五分刈り。3年生は神と。完全なる体育会系野球部でした。3年生になり金子がショートのレギュラーになり、自分はサードに回されました。人生最初の挫折でした。
顧問、担任の先生が一緒で、後に恩人となる篠崎先生は、3年の受験シーズンになると部活に行かなくなった私を車で二子玉川の川まで連れて行き、川辺で体育座りをしながら、最後まで物事を貫く大切さを教えてくれました。
卒業式で初めての卒業生だったという事もあり、泣きながら「真吾、頑張れよ!」と言ってくれたシーンは今でも忘れません。
高校時代は町田の幼稚園から大学まで一貫の私立玉川学園に入学しました。途中からそういった学校にす入るのは、溶け込めるのが難しいといわれてましたが、自由な校風、競争が少ない感じ自分が合っていました。 中学校で野球を完全燃焼した自分は、これも祖父の薦めで、体育会系ゴルフ部に入部しました。それと共に、昔から絵を描く事が好きで、その延長から立体に目覚め、石を材料とした彫刻を専攻する事になりました。 そのまま玉川大学文学部 芸術学部美術専攻彫刻課程に入学しました。その時のクラスメイトとは今でも親交があり、自分に音楽(hiphop)の素晴らしさを教えてくれた2人に出会いました。2人は高校からラップグループを組み、今となっては誰もが知ってるチームで、自分も大学時代に何人かとラップグループを組みました。その2人のお陰で色々な友人達と出会い、色々なイベントに出演することもできました。
彫刻と音楽に明け暮れた素晴らしき学生生活でした。
修行時代
大学在学中やりたい職業もなく、卒業後、渋谷で洋服屋や原宿でスニーカー屋でバイトをしながら、自分の職業は一体何が向いているか考える日々が続きました。
立体造形が学んだでたことや、お客様とお話しするのも好きだったこともあり、『美容師』という職業に興味がでてきました。立体造形がカットに非常に役立ち、色彩学も学んでいたことから、山野美容専門学校では級長、成績もトップクラスで、皆勤賞も取りました。
皆勤賞は、夜間科だったので、朝から夕方までテレアポのバイトをし、自分で学費を払っていたせいでもありました。
後から聞いたのですが、母も昔はデザイナーか、美容師になりたかったそうで、絵や裁縫が得意なところは、母からの遺伝かもしれません。
専門学校の授業の一環として、ヘアーディメンションのスタイリストによるヘアーショーがあり、そのショーに出演していたCHIKAさん、TOSHIさんのショーに魅せられ、ヘアーディメンションというサロンに興味がでてきました。
ある日、担当の先生に「推薦したいサロンがあるんだけどどう?」と言って頂きました。そのサロンがヘアーディメンションという何か運命的なものを感じ「是非、面接受けさせて下さい!」と即答しました。
24歳で入社した私は、先輩のアシスタントがほぼ年下で、当時中卒でも美容師になれる時代だったので、6つ下の先輩もいました。
しかし、一度、学歴もプライドも何もかも捨ててきた私には年下だろうが何だろうが関係なく。よーく絞ったスポンジの様に何事も、吸収しよう!素直になろう!と心掛けいました。
年齢の事もあるし、早くスタイリストとしてデビューしたかった私は、朝から晩まで同期の誰よりも練習に明け暮れました。
先輩のお昼ご飯の買い出しや、掃除、ケープ類の洗濯、ゴミ出し、正にゼロから始まるスタートでした。
2年目にはヘアーディメンション3号店の当時店長だったTOSHIさんに目を付けて頂き、3年目には専属アシスタントにならせて頂きました。
当時、木村拓哉さん主演のドラマ「ビューティフルライフ」の影響もあって、世にいう"カリスマ美容師ブーム〟の真っ只中でした。
毎日溢れんばかりのお客様。雑誌の撮影、テレビ、地方での作品撮りと休みなくアシスタントをしていました。
スタイリスト時代
28歳の年にスタイリストになった私は、無我夢中で集客しました。親族、友人達やそのお友達、町で声を掛けて来て頂いたり、お店の店員さんなど、今考えても良くやったと思います。
初月に35万円売上げ、40名に来て頂き8ヶ月後には100万円売り上げました。ヘアーディメンションのフリーのお客様や、学生時代から絵を描く事が得意だったせいか、メイクも好きで、先輩から雑誌の撮影もさせて頂いたのもあり30歳でトップスタイリスト、33歳に副店長、36歳にはヘアーディメンションの店長になりました。
大型サロン独特の決まり事の遅さや、自分の意見が通らなく、ヤキモキしてたある日、先にヘアーディメンションを辞めた同期から、お店を一緒にやらないか?と連絡がありました。それは、ある業者さんが、スタイリスト達に向けてサロン出店し、自社の製品や、薬剤、サロンの内装まで手掛けてくれる「大人のヘアサロン」というコンセプトのサロンでした。面白いと感じた私は、同じく一緒に誘われていたヘアーディメンションの同期、INTI代表の宮本氏と3人で新たなスタートに立ちました。1つのサロンの技術しか知らない私にとっては何もかもが新鮮で、髪を傷めない技術や、明るい白髪染め、お客様に対しての接客などヘアーディメンションにはなかったものを得る事ができた4年間でした。
その後、TOSHIさんのサロンにお世話になり、マネージメントの大切さ、人を育てる大事さを教わりました。
美容師としてというより、人として、男として尊敬できる先輩です。
若い時から人間として成長できたのは、TOSHIさんと出会ったからだと思います。
今でも修行時代の先輩、後輩、同期は美容人生の宝物です。
INTI時代
表参道で美容師を続け40歳を越えた私は、毎日の繰り返しのサロンワークを過ごしていました。
そんな中、ある違和感を感じ始めました。
「自分はこのままで良いのだろか?」「自分はもっとできる。」「自分は沢山のお客様を喜ばせることができる。」そして、自分自信が今『熱くない』と。
自問自答する日々が続き、何か物足りなさを感じていましたそんなある日、若い時から苦楽を共にしてきた宮本氏から連絡がありました。
「共に成長しよう。」自分にはまだ伸びしろがあると感じていた私は、この言葉とINTIのコンセプトに可能性を感じ、心が動き始めました。
40代での転職。今までのお客様。前美容室との関係性。確かにリスクもありましたが、それを上回るものをINTIに感じ入社することを決めました。
INTIに入社後、生活は目紛しく変わりました。
コンプレックをお持ちのお客様には、今まで培った技術、接客が通用しない。より本気でお客様に向き合わないと絶望させしまう。
そう感じた私は人形の髪の毛を使って練習し始めました。もともと人前で練習をするのが苦手な私は、定休日を使い練習する様になりました。
そして、今までより「薄毛に対する知識を今以上に得て、ご提案したい。」と私は感じました。
「ん?この感じ懐かしい。」
20年前の駆け出しの頃、技術ができない悔しさからよく定休日に練習したり、毎晩お客様を集客する為に、表参道を夜な夜な歩いたり、ヘアカタログを読みあさってお客様にご提案した、青春の日々を思い出させてくれました。
40歳を越えてあぐらを描くのではなく、美容師として新しい引き出しが持てたことは、本当に幸せだと感じます。
ある営業日、お薬の服用によっての初期脱毛で悩まれているお客様が来られました。私が初期脱毛の理由と薄毛をカバーするカット、どうやって毎日スタイリングするかの方法をお伝えしたところ、涙ながらに「明日からが楽しみになりました。」と感動して頂きました。
お気持ちを間近で感じられた私は、「なんて素晴らしい仕事なのだろう。」と美容師の仕事の素晴らしさを再確認し、INTIに入社を選択したのは間違ってなかったと感じました。
雨の日、強風の日、暑い日、「お客様達はいかがお過ごしか?」「上手くスタイリングされていらっしゃるか?」と良く思う時があります。
薄毛に悩む私もそんな日は外出したくないです。そんな日に夜までストレスなく、快適に過ごして頂ける様にカットでの薄毛のカバー、乾かし方、スタイリングの仕方など追求し、精進していきます。
今、そんな想いでの日々のサロンワークは、忘れかけてた『熱さ』を取り戻した気がします。
INTI report - 佐藤 真吾
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