スタッフ紹介

加賀谷 信貴

加賀谷 信貴
KAGAYA NOBUTAKA

ポジション 薄毛Designer
血液型 O型
趣味 食べること、寝ること、運動すること
自分の悩み 生え際の後退 白髪
自分にキャッチ
コピーをつけると
理容師美容師両免許所持者
他のスタッフからの印象 話しやすい人

幼少時代

加賀谷幼少時代1

私は1994年5月4日に長男として秋田県潟上市に生まれました。父と母と3歳離れた姉と犬と暮らしていました。父が生まれる前に一時期過ごした奈良県にある信貴山(しぎさん)と言う山から、読み方を変えて信貴(のぶたか)と命名されました。

秋田県の日本海川沿いの街で、出戸浜と言う海水浴場が近くにあり、海に歩いて行ける距離に自宅がありました。
夏はそこまで暑さに苦しんだ記憶がないのですが、冬はかなり寒く、海の近くな事もあり冬は毎日冷たい極寒の海風に苦しんだ記憶があります。
雪がたくさん積もる地域でしたので、休みの日は除雪を手伝ったりしていました。数日放置すると、すぐに膝を越える高さまで雪が積もるので除雪は毎日しないといけなかったのでとても大変でしたが、今思うととても綺麗な雪景色で趣きのある風景でした。

幼少時代はとにかく泣き虫で幼稚園や学校に行く朝はひたすら泣いていました。
日曜日の夜は明日学校や幼稚園に行くのが嫌で夜から泣いていた記憶があります。
行けば友達と遊んだり勉強をして楽しんでいたのですが、行くまでが辛く泣いていた記憶があります。

友達と会うと当時は平成仮面ライダーが始まった時期でしたので、仮面ライダーごっこをしたりみんなでサッカーやドッジボールをしたり遊んでいました。
友達のお父さんがいろんな行事を作ってくれて、映画を見に行ったりプールやキャンプに行ったりしました。 「危ない事はしちゃダメだよ」とよく母から言われていたので、大きな怪我や無茶な事などはしないように夢中に遊んでいました。
たまにみんなで友達の家にお泊まり会をしたりしていて、楽しかった思い出がたくさんあります。
母親はいつも優しかったのですが、学校や幼稚園に行きたくないといつも困らせてしまっていたので、大人になった今になって反省しています。
甥っ子がいるのですが、彼が毎日楽しく学校や幼稚園に行く姿を見たり、「学校楽しいよ」と言われるとなんて良い子なんだと、逞しいなと感心しています。

学生時代

5歳の時に泣き虫だった自分が人生で初めて自分からやりたいと思える事に出会いました。
それは「空手」でした。今でも両親に自分からやりたいと言った事を覚えています。
家の近くには空手の道場が無く、自宅から30分ほどの場所にあるスクールに最初は週一回のペースで通い始めました。
毎回遠い場所に送迎してくれた両親にはとても感謝しています。
黒帯の先生の号令でまだ小さい少年達が大きな声を出して稽古をしている姿は5歳の僕にはとても迫力があり、衝撃のある光景でした。

通い始めたのは良いものの、たまに泣いたりして行けない事もあったのですが、なんとか通い続け、小学校一年生の頃にはそこそこ稽古が形になっていました。
そこから更に空手に熱が入り、週一回から始まった稽古も4年生の頃からは多い時は週五回通うほどになりました。
学校から帰ると友達と遊ばずに道場に行っていた日々だったので、もう少し友達と遊ぶ時間を作ったら良かったなと今は思います。

たくさんの稽古の成果もあり、いつも一回戦負けだった大会が少しずつ入賞できるようになり、6年生の頃には秋田県の大会で優勝する事が出来るほどになっていました。
道場のみんなや、応援してくれた人達が喜んでくれたのはとても嬉しかったです。 やり方や場所を変えながら高校生まで空手を続けることができたのですが、小学6年生で12歳の頃の自分が1番空手の大会の成績が良かった時期です。

1番空手で印象に残っている事は大会や行事ではなく師範の稽古の最後にみんなで聞く小さな講話のような時間でした。
小学生でしたが、道場生は全員静かに真剣な眼差しで師範の話を聞いていました。
その時間では空手を通して真剣に修行することによって心と身体を鍛え磨き、何事にも動じない強い意志と身につけることや、 「知性・教養・礼儀をしっかりと身につけ、目上の人を敬いましょう」
と言うような内容でした。
この時に学んだ教えは今も僕の心の中にしっかりと残っていて、人生の土台になっていると思っています。

修行時代

加賀谷修行時代

秋田県で18歳まで過ごしていたのですが、中学一年生から髪型に興味を持ち始め、いつも校則ギリギリか完全アウトな髪型で中学校、高校と過ごしてきました。
自転車通学のヘルメットを朝頑張ってセットした髪型が崩れるのが嫌で被らなかったり、制服を変形させたり、ぼろぼろのママチャリに乗ったりとあまり生活態度が良くはなかったのですが、オシャレやカッコいい物に興味を持ち始め、その延長で美容師になる事を決めました。

父親が学生時代を東京で過ごし、東京で働いていた為、上京する事に理解があったので、東京の国際文化理容美容専門学校美容科に入学します。
手先は器用ではなく、そんなに真面目に授業を頑張るタイプではなかったのですが、皆勤賞だけは取ろうと言う気持ちで学校生活を過ごしました。
毎日授業に出ていた事もあり、真ん中より少し上の成績で学生時代を過ごす事ができました。
美容師免許を取得し、学校を卒業した後、母親が通っていた美容師さんの強い勧めが理由で国際文化理容美容専門学校の今度は理容科の通信科に入学し、学校が提携している理容室に入社します。
周りの同期の子は理容科出身で理容師の中、自分だけが美容科出身で美容師と言う変わった状況の中、社会人一年目がスタートしました。

理容師の技術である顔剃りが1番修得した技術で難しい技術でした。
理容業界の中ではカットよりも顔剃りの方が難しいと言われる程、難易度が高い技術です。
自分は技術の合格をする事に一年半かかってしまい、受かった時には喜びよりも安心感や解放感を感じた事を覚えています。
主に男性に特化した技術を学びながら通信課程に通い理容師とスタイリストになり3年間の理容師人生を過ごします。

理容師免許取得後、今度は都内の美容室に入社します。
美容師免許を生かして、女性を綺麗にするための技術を学ぶ為の転職でした。
男性の技術は出来ていたので女性のヘアスタイルに関する技術を中心に学びました。
今まで長い髪の毛を触った事がほとんどなかったので、女性の髪の毛を触るのが少し怖い気持ちを抱きながら少しずつ出来る技術を増やしていき一年半程で美容室のスタイリストになります。

スタイリスト時代

加賀谷タイリスト時代1

25歳で理容師、美容師としてダブルライセンスを取得してそれぞれの道でスタイリストになり、お客様を担当できるようになります。
この頃から少しずつ仕事が楽しくなり始めます。
一人一人のお客様に真剣に向き合い、必ずまた来てもらえるような技術や接客を心がけながら毎日必死に仕事をしていました。
先輩スタイリストからの引き継ぎや、紹介などもあり少しずつお客様も増えて、1日に担当出来るお客様の人数が増え、初めて一日の予約が指名のお客様で終日埋まった時は本当に嬉しかったです。

男性には男性、女性には女性の技術や接客がそれぞれあり、特に男性の分野では理容室に来店する男性、美容室に来店する男性に別れ、それぞれに提案するスタイルや提供する技術や接客に違いがあると思っています。
同じスタイルでも理容師と美容師ではカットの仕方や、使う道具や用語も違う為、表現の仕方に違いがあり、そこがまた面白い部分でもあります。
理容師、美容師としてキャリアを積み重ねてきたからこそ見える視点で造るスタイルや、お客様に合わせて自分が美容師、理容師と 使い分けながら技術や接客が出来るのが自分の武器であると年数を重ねて気づく事ができました。

加賀谷タイリスト時代2

自分のキャリアを通して感じる事は常に男性のお客様から支持を頂き、男性のお客様を担当する機会が多い事でした。
技術面では男性のヘアスタイルやファッションに対する意識が年々向上していき、漠然としたオーダーをするお客様もいれば、ヘアスタイルの細かな質感や、ディテールにもこだわる方も担当するようになり、男性のカットの様々な引き出しを求められているなと感じるようになりました。
接客面では感情やその場の雰囲気に流される事が少なく、きちんとしたスタイルへの道筋を説明し、理論的にスタイル提案をする事が必要とされます。
理論的な分、一度満足して頂くと女性のお客様よりも男性のお客様の方が美容師を頻繁に変えない傾向があり、その点もやり甲斐を感じました。

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